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ヒストリー

有田焼の始まり

                                       

17世紀はじめ、豊臣秀吉の朝鮮出兵時、鍋島藩の藩主が朝鮮陶工を日本に連れて帰り、磁器を作るための陶石を有田の地で発見したことが有田焼の始まり。

17世紀後半になると、元禄文化を反映した日本独自の豪奢な色絵の古伊万里や白い素地と大胆な空間が特徴の柿右衛門様式が作られ、ヨーロッパに輸出され、これらは、ヨーロッパはもとより、世界を席巻した。

400年間継承された様々な技術、生成、絵付け、焼成など、そして個性豊かなデザインは現在でも日本一の磁器として評価されている。

弥左ヱ門窯の始まり

初代 弥左ヱ門(松本 弥左ヱ門)

上幸平山の窯焼、初代 松本 平左ヱ門の次男として生まれる。

その後、成人し独立して1804年、弥左ヱ門窯を開く。

この当時、有田の窯焼は藩から名代札を下付されて、内山12外山10の登窯を共用して業を営んでおり、上幸平山は内山の窯の一つであった。

弥左ヱ門窯は柿木小路と昔から呼ばれている上幸平西端の小径と大樽との間にあったので、一般には大樽口と呼ばれていた。

二代目 弥左ヱ門(松本 庄三郎)

文政6年、弥左ヱ門の長男として生まれる。
母は"おいわ"といい、彼が4歳の時に死亡。

天保9年、彼が16歳の時に初代 弥左ヱ門が死去したため二代目を襲名し、窯焼を継いだものの、時勢は天保の大飢饉による不景気のどん底で、若年の彼では経営を続けることができずに廃業。

その後放浪生活を続けたが、いよいよ生活に困窮し、親から譲り受けた家屋敷だけは守り抜きたいと遂に、家屋敷を人に貸しその家賃をもって講掛け(ギャンブル)を行い、自分は佐賀城内の成富質屋という豪家に下男として年季奉公する。

物心ついては母の愛情も知らず、成人しては終始生活に追われて最低の人生を歩んできた彼だが、未だ年季があけないうちに思いがけず講が当たり、この下男奉公という最低の境遇から這い上がった。

それから"西村おとも"という7歳年下の女性と結婚するが、29歳の若い妻と乳飲み子を残し、36年の困苦に満ちた生涯を終えた。

弥左ヱ門窯の歴史

三代目 弥左ヱ門(松本 庄之助)

母"おとも"が唐物の行商を細々と行い生活費を稼ぎ、辛うじて雨露をしのぐ母屋はあるものの、赤貧洗うが如しの形容そのままの生活を少年時代はすごした。

15歳を迎えた正月、三代目 弥左ヱ門を襲名。母がコツコツと貯めた3千円をもとでに庶民金融の事業をおこなう。

貧乏のどん底で死んでいった父、借金で苦しんでいた母、貧乏人と蔑まれた自分自身のことを考えての決断であった。

事業は好調に推移し、17歳の時に泉山の窯焼である深海米太郎の長女"おうた"を妻に迎える。

21歳の時に妻の父である米太郎が死去したため、彼が支配していた西登窯の総支配人となり、次第に頭角を現してきた。

明治21年、地域産業の発展のため同士とはかり、共益株式会社という一般の町民のための金融会社を設立。(この共益会社は共益銀行となり、後に合併し今日の佐賀銀行となる)

当時有田には有田銀行1行しかなかったが、有田の支配層である窯焼を中心とした銀行で、庶民には近づきがたい面があった。

そこで彼は一般町民が気軽に利用できる銀行の必要性を痛感し、町内の素封家である蒲地 兵右衛門氏の協力を得て、洪益銀行の設立に踏みきった。

当時、巷間では有田銀行を殿様銀行、洪益銀行を草鞋銀行と呼んでいたことからも、両方の性格は明らか。 以後、この両行は良きライバルとして競い合い、地場産業の発展に貢献する。

明治22年町会議員となり、更に、西松浦郡会議員、郡参事会員副議長等の要職に歴任した。

明治28年には、有田に徒弟学校の創立を計り、更にこれを、県立工業学校に昇格させる運動を続け、遂に明治36年佐賀県立有田工業高校となり今日に至っている。

九州鉄道会社の中樽貨物駅の設置から上有田駅の開設にも努力し、遂に明治42年上有田駅が開設された。

このため、焼物の商流が劇的に変わり、今まで伊万里商人の独壇場だったのが有田商人にとって代わられた。

昭和6年に75歳の生涯は終わる。

窯焼ではなかったが有田町全体の振興のため尽力を尽くした人生であった。

四代目 弥左ヱ門(松本 静二)

明治9年、有田で酒造業を営む渡辺 源之助の次男として生まれる。

明治25年、彼が高等学校の2年に進学する時に、松本 庄之助の養子となる。

卒業後は伊万里銀行に入行させられるが、弥左ヱ門窯を再興させ海外に輸出を行うという夢を実現するため、明治35年、養父に黙って銀行をやめ松本家を無断出奔し、義兄の前田 儀右衛門から有田焼の陶磁器見本を借り受け、神戸を出航しインドのボンベイに向かった。

ボンベイで資金が絶えた彼は、旅客運賃・貨物運賃共に着払いという異例のデッキパッセンジャーとして、南アフリカのダーバンまで行き着いた。

ダーバンで洗濯屋を営んでいた唯一の日本人である岩崎のところへ転がりこみ、有田焼を質に金を借りて渡航費用を支払い、洗濯屋を手伝う事になる。
ヨーロッパまでの渡航費用をここで稼ぐ腹積もりであったが、日露戦争が勃発し日本に戻らざるを得なくなり帰国。

帰国後、アフリカで覚えた西洋料理の味が忘れられず、妻に作り方を教え込みカレー、シチュー、スープ、ステーキ等を作らせては、友人を招いて西洋料理を食べさせた。
当時、松本家の西洋料理は有田において有名で、"ハイカラ"と呼ばれていた。

有田焼輸出の夢が忘れられない彼は、有田焼の貿易を目的とする陶磁器販売会社、有田物産合資会社を明治39年に設立。
今度は養父の庄之助も快く承知し資金を提供し、これを機に四代目 弥左ヱ門を襲名する。

生地の仕入れは有田磁器合資会社と肥前陶磁器合資会社を主体とし、赤絵付は古伊万里赤絵では定評のある鷹巣 又四郎を専属とした。
裏印と商号表記は□の中に有、即ち"囿"とした。

五代目 弥左ヱ門(松本 哲雄)

昭和15年に有田物産合資会社を継承し、株式会社有陶を設立し国内卸及び円ブロック(鮮、満、支)貿易において実績をあげる。

昭和22年には商号を有田陶磁器株式会社と変更、南方向けの食器の輸出貿易に進出する。

昭和28年、商号を有田物産株式会社に変更し、ゴールドイマリというブランド名で北米、欧州向け輸出に転換する。

シリアとモロッコに大得意先ができかなりの量の輸出を行う。

昭和32年には取引先有田陶業有限会社の生産設備を一切譲り受け、念願の窯元になり、弥左ヱ門窯を再建する。

伊万里市に進出し、昭和39年から弥左ェ門窯は一般食器から花瓶、飾皿等の装飾品に至るまで、有田焼で出来るほとんどの品種が生産可能になった。

製品の品質安定と向上を計る為の陶土を自給するため、昭和43年には西有田に陶土工場を設ける。

古伊万里の復興に努力し伝統産業の育成と貿易振興にも貢献した功績により昭和45年に藍授勲章、昭和52年には勲五等双光旭日章を授与される。

六代目 弥左ヱ門(松本 郁夫)

円が変動相場制になり200円を越した辺りより、輸出が値段が合わなくなり、販売先の主力を国内市場に移す。
取引の大半が有田地場の卸商社、小売商人になる。

平成6年、赤坂工場を新設外尾山工場老朽化の為、赤坂工場を新設し移転する。

六代目はお酒が好きであり、平日は帰れば水割を飲み、休みの日は朝から水割を飲むほどウイスキー好きであるが、高価なウイスキーは嫌いで、サントリーホワイトが大好きである。
車も高級車は嫌いでトヨタカローラを愛する誠実で素朴な男である。

弥左ヱ門窯とアリタボーセリンラボ

七代目 弥左ヱ門(松本 哲)

九州大学経済学部卒業後、某都市銀行に入社。
3年間勤めるが、実家に呼び戻され20億円の借金を整理するため民事再生を行い、家業を継ぐことになる。

有田焼を今一度世界ブランドにするために、現代のライフスタイルに合ったモダンな有田焼「アリタポーセリンラボ」の開発を手がける。
その中でも、日本の四季をテーマにした、新しいスタイルの有田焼「JAPAN」シリーズは、高い評価を得ている。

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アリタポーセリンラボについて

創業1804年 200年の伝統技術を活かしたラグジュアリーモダンな「有田焼」
アリタポーセリンラボは、創業200年以上の歴史を誇る有田焼老舗窯元 七代目弥左ヱ門が生み出した
現代のライフスタイルに合わせたラグジュアリーモダンな有田焼です。
熟練職人が弥左ヱ門窯ならではの門外不出の技術を活かし、数え切れない試作を繰り返し進化した釉薬・技術を使い、
一つ一つ手仕事で、モダンな有田焼を作りだしています。